2012/12/09

私の頭はどうかしてしまったのだろうか。

 いったいこれはどういうことなんだろう。自分に読解力が無いということなのだろうか。

 大阪市長にして日本維新の会代表代行を務める橋下徹氏が、自身のTwitter(https://twitter.com/t_ishin)においてこんな発言をしている。



 えっと……これ、何かのギャグですか?
 英語を公用語とするアメリカの子供が英語を話すのは当然でしょう。日本の幼稚園児だって日本語は喋る。公用語でない言語を喋れるかどうかじゃないの? アメリカ人の幼稚園児はドイツ語とかイタリア語も喋れるの? 橋下さんの7人の子供さんは英語しゃべれるの?
 いろいろと頭の上に大ハテナなこの発言は、ネット上でもかなり話題になった。そして今日、私がなんとなく、彼のその発言の真意を探ろうと過去のツイートを遡っていると、関連したこんなツイートを見つけた。

んーと……このツイート、私には
僕が英語を聞けない、話せないのは、文科省の教育方法が失敗してるからだ!
というふうに読めるんですが、どこか解釈が間違っていたりしますかね?

 これは裏を返して
このツイートの真意も読み取れないような日本語教育しか受けていないなら、お前は英語を話すアメリカの幼稚園児以下だ!
という主張だったりするのですかね。なるほど、そうだとするならばしょうがない。引き下がりましょう。

 さて、これを読まれた皆様にお聞きしたいのですが、やっぱり私の解釈はおかしいのでしょうか?
 おかしいと思った方、ぜひともこの発言の「正しい解釈」を、このクズのような私めにお教え下さいますよう、なにとぞよろしくお願いいたします。

2012/12/08

「新劇場版」であることの意味

 と、まぁ。観てきたわけですよ、エヴァQ。劇場公開最終日、テストが終わってすぐに京急に飛び乗って汐入で降りて、そうすると13:30からのチケットが取れてしまった。まぁ最終日だし、客も少ないのだろう。
 劇場に行ってみると、果たして本当に客の入りは少なかった。おかげで最後列のど真ん中の席に腰を据えることができた。5.1chサラウンド、完全正相。これ以上に耳の幸せなことはない。近くの自販機で綾鷹を買って(ここで劇場脇の売店で300円のLサイズドリンクを買っていたら、私は帰れなくなっていた)、席に陣取って、口に一口綾鷹を含んで、飲み干して。体を清めるようなそんな感じで、私はその"映像"と対峙した。

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・巨神兵東京に現る 劇場版

 東京都現代美術館で行われていた「館長庵野秀明 特撮博物館」。そこでの"展示物"として、現在の特撮技術の全てを結集して作り上げられた、09分03秒の映像。 私はその企画展に2回行き、この映像を5回観た。その映像が、劇場のスクリーンでまた観れる。それも、1分4秒もの追加を含んだ、計10分07秒。私がエヴァQを観に行った、理由の半分がこれだ。

 それはまさに圧倒的。アニメーションでは、CGでは絶対に描けない現実感と空気感。そう、そこには、ミニチュアといえど"現実"がある。壊れていく"現実"の"現実感"(リアリティ)の重みが、そこにはある。炎、爆風、溶けていくビル。全てが特撮、実写なのだ。
 ブログにも書いた。特撮とは技術ではない、表現技法だと。空気遠近法だとか叙述トリックだとか対位法だとかと同じく、永遠に廃れない"技法"なのだと。
 優れた技術も、いつかは衰退する。だが、優れた技法は決して衰えない。なぜならそれは、"魅せる"ことを突き詰め、コストを度外視した結果にたどり着く"答え"だからだ。
 舞城王太郎の独特なリズムの"言葉"を、林原めぐみが朗読する。それだけでも幸せなのに、加えて目の前には映像がある。圧倒的な現実感の重みと空気を纏った、壮絶なまでに美しい地獄の映像がある。特撮だからこそ成し得た、重く息苦しい表現が、この世界観にはちょうどいい。

 そして 、この"映像"からバトンを渡されるかのように、映画は淡々と始まる。

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・ヱヴァンゲリオン新劇場版:Q Evangelion:3.0 YOU CAN (NOT) REDO.


 序・破と、TV放映版のエヴァとは"似て非なる"路線を歩んできた新劇場版。
 そして破の次の今作は、まさに"急(Q)"であった。

 "急"激に変わる世界観。観客の頭に浮かぶのは"Q"uestionマーク。

 序盤から、ばかみたいに速いテンポで映像が、世界が展開していく。いやちょっとこれはないよ、ご冗談でしょう庵野監督、なんて感じで、どっかの物理学者のエピソード集のタイトルが頭に浮かぶ。だがそうもしていられない。必死に追いついて行かないと、本当に取り残されてしまう。スクリーンの中のシンジくんのように。
 そして観客は一瞬にして、シンジと同じポジションへと強制的に立たされる。「世界についていけてない」。これこそが、この映画の根底にあるものなのではないかと、私は思う。
 人間は欲深い。「ほんとうに知りたいの?」という問いがあちこちで提示される。シンジと観客は「もちろん」とそれに答え、真実を手に入れる。そこにあるのが、絶望的な真実だと知らないまま。
 欲して、手に入れて、受け入れたくなくて、否定して。そう、劇場の観客は皆シンジだ。自分の手にした真実に責任も取れない、アスカが「ガキ」と言い捨てた、無責任な存在。そう。『誰しもみんなシンジなのだ。』
 絶望的な真実を手に入れたシンジたちに、タイトルが改めて提示される。
        "EVANGELION:3.0 You can (not) redo."
 そう。もうやり直せない。手に入れた真実を、真実を手に入れたという"真実"を、無かったことにはもうできない。

 そのあとに起こったことは、いとも簡単だ。
 絶望から這い上がろうとした。這い上がろうとして、盲目的になった。盲目的になって、結果、また絶望だけを手に入れた。
 しかも今度の絶望は、まさに目の前30cmで起こった。それだけの話だ。
 絶望。その言葉さえも軽いかも知れない。シンジはまた世界を否定する。アスカはそれを引き摺り上げる。その時、シンジは拠り所の象徴を取り落とす。そして、果ての見えない道を引きずられていく。
 映画はそこで終わっている。流れるのは宇多田ヒカル。桜というには緋色の強い、果てない大地を進んでいく。

あなたが守った街のどこかで今日も響く
健やかな産声を聞けたなら
きっと喜ぶでしょう
私たちの続きの足音 

宇多田ヒカル"桜流し"より

 きっとそれは、もう永遠に叶わないことを知りながら。

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 「新世紀エヴァンゲリオン」ではなく、「ヱヴァンゲリオン新劇場版」だった意味。
 それはたぶん、もう"Refrain"しないことなのだろう。
 Nervは"神経"。Seeleは"魂"。そこに今回"意思"たるWilleが加わる。
 流れに身を任せているだけじゃない。「新劇場版」は、"意思"をもって、その"Refrain"の環に終止符を打つのだ。
 ……いや、"Refrain"はまだ続くのかもしれない。それとも、人間は全て等しく"Refrain"の環から抜け出せないのかもしれない。

 次回作、完結編。タイトルは「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」。最後の記号は、楽典において反復記号の終端を示す記号である。

※これは、2012年12月8日午前2時14分に、私がfacebookの"ノート"に書いたものを転載・再構成したものです。