2013/04/24

量産されるデザイン、消費されるデザイン

 先日仮釈放された、元Livedoor社長の堀江貴文氏が、株式会社paperboy&co.社長の家入一真氏との対談の中で「ロゴとかネットで頼めば5000円でやってもらえる」と発言し、かつ家入氏が、かつてデザイナーの若野桂氏に発注したロゴデザインの代金50万円を踏み倒したことについて発言し、物議を醸しているようだ(詳しい経緯はこちらの記事を参照していただきたい)。
 この間から立て続けに、デザイン業界を揺さぶり続けるような話題が続々と持ち上がっている。政府のクール・ジャパン推進会議での秋元康氏の発言といい天王寺区広報デザイナーの一件といい。
 しかし、なぜこんなにも、前述のような人たちとデザイナーとの間にこれだけの認識の差があるのだろうか。

 現在、私たちの身の回りにはデザインが溢れている。企業のロゴマークや包装紙はもちろん、キーボードの配列や鉛筆の形、トイレットペーパーや折込チラシにまで、デザインという「概念」は私たちの身の回りのもの全てに埋め込まれている。そしてそれは同時に、私たちはそれだけの「デザイン」というものを、ごくごく当たり前に見つめながら生活しているという事でもある。
 最近はパソコンやプリンターの普及で、一般人にもそれなりのデザイン性を持ったポスターなり書類なり、様々なものをつくることが可能になった。それゆえに、私たちを取り巻く「デザイン」の度合いは、急速に高まったといえよう。
 そしてそれは、「デザイン」が「特別なこと」では無くなったということを示す。平たく言えば、「ありがたみが薄れてしまう」のだ。
 大量に生産され、そして消費されるようになった「デザイン」という「商品」の、その単価がだんだんと下がっていくのは、資本主義経済の市場原理においては当然のことと言える。だが、先述の人たちは、それよりも大きな間違いを犯している。
 それは、「プロとアマとを区別していない」ということだ。

 「プロ」とは、顧客からの発注を受け、その顧客の意思に沿い、なるべく顧客の思い通りのものを形にし、その対価で生計を立てる、「プロフェッショナル」である。すなわち、「プロ」が生産するものの需要は、顧客側にあることになる。
 他方、「アマ」とは、需要が自身の側にあるという点で大きく異なる。いわば「自分のために」生産するのだ。その生産によって生計を立てているわけではない。必然的に、その生産物は無償か、非常に安価で提供されることになる。
プロ=その生産によって生計を立てている人。
アマ=その生産によって生計を立てているわけではない人。
 大まかに、上のように分類できるだろう。例外もあるかも知れないが。
 ここで重要なのは、先述の家入氏や秋元氏、天王寺区の事例に関しては「プロ」を対象にしているということである。プロフェッショナルとして最大限顧客の意思に沿い、デザインという「商品」を生産して生計を立てている人たちを相手にしているのだ。
 そんな人達を相手に、「5000円で」だとか、挙句「無報酬で」なんて言い出したら、プロの人達はどうやって生計を立てればいいのだろうか。プロはプロとして誇りを持って最高のデザインをつくり、顧客はその最高のデザインに敬意を表して、デザイン料というものを支払うべきなのではなかろうか。
 プロのデザインは、使い捨ての消耗品ではない。いわば「命を賭けて創り出す、オーダーメイドの美術品」と言っても過言でないものであるべきなのだ。

 このブログで前にも触れたことがあるが、黒崎政男氏が著書「デジタルを哲学する」の中で"情報発信のカラオケ化"ということを説明している。曰く、カラオケは「歌う」という行為を広く一般に開放し、「歌のうまい一般人」を多数輩出した結果、プロ歌手とアマチュアのそれとの境界線をあやふやにしてしまった。情報発信という分野においても、インターネットの普及によって同様の現象が起こると。
 ここでの「情報発信」とは、インターネットが爆発的に普及し、Web2.0化ヘと至る流れの中で大衆に開放された、文芸・絵画・音楽など、あらゆる分野における創作物を発表・発信することも、もちろん含むこととなる。すなわち、「情報発信のカラオケ化」とは、「あらゆる創作に対するプロとアマチュアの境界線をあやふやにする」事すらをも意味するのだ。そしてその「創作」の中には、もちろん「デザインする」ということも含まれる。
 いま、インターネット上には、曖昧化する「プロとアマ」の境界線を乗り越えて「プロ」の世界を侵食していく「アマ」と、「プロ」の仕事を買い叩きたい「顧客」とがひしめいている。
 このままではいつか「プロ」は、この世界から消えてしまうんじゃないだろうか。