2015/11/26

試薬としての「おそ松さん」

 お久しぶりです、篠崎です。ほぼほぼ1年ぶりのブログ更新となります。イヤホンを新調した(というか誕生日に親戚に高価いものを買ってもらった)ので、そのレビューもしたいしたいと思いつつも、こっちを先に書き始めてしまったので。
 ギャグアニメを無理矢理ギャグじゃない方向に解釈してみようという、生産性皆無のエントリーです。



 なんだか各所で大人気だったり物議を醸しているTVアニメ「おそ松さん」ですが、私も毎週ニコニコ動画の配信で観ています。なんというか、赤塚不二夫の名に恥じぬ、これはこれでいい作品だと思っています。ただのギャグアニメとして、頭のなかを空っぽにしてお腹が痛くなるほど笑い転げたりしながら観ています。ま、実際いつも私の頭の中身は空っぽなんですけど。
 そうはいってもまぁ、上記の通り、この作品は現在それなりに物議を醸しているわけで。そんな物議の一端を、公式ページにも見ることができます。
ようは、上のお知らせはテレビで放映された「おそ松さん 第1話」はDVD/BDには収録されず、代わりに完全新作アニメーションが収録されるというプレスリリース、下のそれは同じく「おそ松さん 第3話」が、DVD/BDに収録されはするものの、テレビで放映したものとは内容を変更して収録する、というものです。後者は具体的に言うとあるエピソードを削った上で収録するというものなのですが、それは書かないでおきます。代わりにこのWeb記事のリンクを貼っておきます。
要するに、3話の中にあるエピソードが、あまりにもパロディがどぎつかったので、地上波放映後に当該シーンを差し替え、BSでは差し替えた上で放送、またDVD/BDには収録せず、こちらも新作のショート映像を収録することが決定をしたというのが顛末です。こんな深夜帯の1アニメ作品の処遇について、社長が直々に回答したというのもヒョエーという感じですが、まあ現実はギャグアニメよろしく笑ってるだけじゃダメなのだよ、ということを見せつけられた感じがします。
 他にも5話でのカラ松の扱いが不憫すぎる、可哀想すぎるなどの理由でなんかプチ炎上したり(そんな大きくもなかった? 私のTLだけ?)、なんだかこの作品は眺めていると微妙な気分になる話題が尽きません。
今回は、そんな「おそ松さん」について、思うことをつらつらと。
 この「おそ松さん」、公式ホームページのイントロダクションにはこんな記述があります。

一世を風靡した伝説の六つ子が、
今、よみがえる!


古き良き昭和の時代―。
日本中を沸かせた名作ギャグ漫画「おそ松くん」。
そしてその昭和の最後を華々しく飾った前作アニメ。

それから時は流れ、現代。
街並みも、ライフスタイルも変わった今、あの6つ子たちも、ひそかに成長を遂げて帰ってきた!

あの頃と同じ家に住み、大人になってもマイペースに生きる、おそ松達。
はたして、イヤミやチビ太、トト子にハタ坊、ダヨーン、デカパンなど個性豊かなキャラクター達の現在の姿は…?!

赤塚不二夫生誕80周年という記念の年に、TVアニメ「おそ松さん」としてよみがえる伝説的作品。
その約束された問題作が、今再び幕を開ける!

 確かに、という他ありません。「約束された問題作」なんて、こんなに最適な言い回しを考えた方は天才だと思います。
 そして、そんな問題作ゆえに、世間で物議を醸すのは当然のことといえます。すなわち、公式が最初から物議を醸すことを前提としているとも取れるわけです。

 そもそも、赤塚不二夫氏の作品は、どぎつい、ともすれば残酷なまでの不条理ギャグが持ち味です(と、私はなんとなく思っています)。
 そして、そんな作風の「おそ松くん」は、過去2度に渡って(1966年・1988年)アニメ化されました。あの不条理なギャグをです。最盛期のトムとジェリーと立派にタイマンを張るか、ともすればトムとジェリーが六つ子におでんの種にされそうなレベル(※個人の見解です)のアニメに、既に2回もなっているのです。そしてその当時、今回のような差し替え騒動は起きませんでした。

 そして今回のアニメ化「おそ松さん」です。今回のアニメ化はあまりにも挑戦的だと、プレス発表の時点で私は思いました。今、「おそ松くん」を下敷きにアニメを作るとなった時、取るべき道は「原作のままではあまりにどぎつい赤塚作品を、いくぶんかマイルドに翻案する」のと、「引かず媚びず顧みず、なるべく原作を尊重する」のとがあったと思います。「おそ松さん」は後者でした。その結果として、やはりいくらか世間を賑わせることになりました。
 そんな、ある程度予想できた結末を顧みず、公式サイトに「約束された問題作」とまで銘打ってまでどうして、アニメスタッフは、藤田陽一監督は、原作にできるだけ忠実に、不条理ギャグとして「おそ松さん」を描いたのでしょうか。

 今や幻となった「おそ松さん 第1話」で、おそ松とトド松はこんな会話をします。
「赤塚先生、怒ってないかな」(おそ松)
「平気だよ、だいぶ前に死んだから」(トド松)
そうなんです、赤塚先生は死んだんです。これが、これだけがその答えだと私は思うのです。
 赤塚先生が死んで、六つ子が酒を飲めるほどに大人になった。それだけの時間が流れた現代は、あの頃からは街並みも、ライフスタイルも、いろいろなものが変化しているのです。そして、変化した視聴者は不条理を嘆き、変化したテレビ局は本編を差し替えました。変化したから対応も変わった、それだけのことです。そしてそれは何より、作品への対応の変化をもって、現在に生きる我々、「視聴者の現在の姿」を描いたということに他ならないのです。
 その変化を映すために、「おそ松さん」は変わってはならなかったのです。現在においても、それは赤塚先生の作風に限りなく近い、どぎつい不条理ギャグである必要が大いにあったのです。
 そして、その試みは成功しました。現代は、「おそ松さん」を拒絶したのです。

 そしておまけにもう一つ。現在という時代は、赤塚先生の作風を嘆き、差し替えました。すなわち、赤塚先生は、現在においてはまず受け入れられず、生きていけないということです。それは赤塚不二夫という漫画家の、漫画家としての死であり、彼の作風、すなわち「赤塚不二夫というジャンル」の死でもあります。加えて、かつて赤塚不二夫がギャグ漫画の王様といわれた時代そのもの、いうなれば「赤塚不二夫という時代」の死をも意味します。そしてそこに考えを巡らせた時、さきに挙げたおそ松とトド松の会話が、少し今までと違って聞こえます。

 そう。「赤塚不二夫」は「だいぶ前」、既に「死んだ」のです。不条理ギャグやパロディに埋め尽くされた彼の作品を受け入れる時代はもう過去のものとなり、現代という、あれからは大きく変化した新しい時代になったのです。

 ここまできて、私は考えます。
 真に「約束された問題作」とは、「おそ松さん」を含めた「赤塚不二夫というジャンル」なのでしょうか、それとも「現代」なのでしょうか。

  聞けばこの会話シーン、最初は6つ子たちが普通に謝っていたのが、フジオ・プロ側のアイディアで変更になったのだといいます。そんなところにも、フジオ・プロとしての、何かメッセージめいたものを感じてしまうのは、私だけでしょうか。



 ところで、この文章は、誰が松野カラ松を殺したか、あるいははなまるぴっぴをもらえなかった子の話というエントリに大いに触発されて書かれました。誰が~が「おそ松さん」という作品の内部的な崩壊を紐解くものだとするならば、私のこのエントリは、その外部的な崩壊を紐解こうと試行したものです。ぜんぜん紐解けてない感じもします。
 要するに、私が言いたいことは、「『おそ松さん』の一見何事もない平和な世界観は、その作品で描かれた不条理と、作品への反応をもって現実的に崩壊する」ということです。早い話がマッポーってこと。

 お粗末さまでした。他の話も、できるだけ早いうちに。